| トップページ > 言葉たち | ||||
言葉:忌々しいものが地上に現出する
友人がニコニコ大会議に行って来たの話より。
コロッセウムで必死に猛獣と戦う奴隷は、観客の多くが自分の惨殺ショーを期待していることに気付いただろう。
当時のローマ人にとって、コロッセウムでのリアル殺戮ショーは最先端の娯楽だった筈だ。それを初めて見たローマ市民は、その感動や興奮や陶酔を熱っぽく友人に語ったに違いない。
そして現在、ある場所でコロッセウムと同じことをして「これはネットの最先端だ! 面白い!」と叫ぶ声を聞いた。
我々はローマ時代から進歩したと言えるのだろうか?
寺山修司「ポケットに名言を」より。
ひとは個人が社会に対して自己を主張するために行うすべての違反行為や、さらに犯罪についてさえも言訳をすることができる。だが故意にある人間が人間を物にまでおとしめようと努める場合には何ものも償うことの出来ない忌々しいものを地上に現出させることになる。
-- シモーヌ・ド・ボーヴォワール「第二の性」
言葉:マスコミの批判をするのに、マスコミの言葉を持ってするな
秋葉原の通り魔事件に関係して、この言葉を思い出した。哲学者の内田樹による言葉。
現場に相対すると興味本位の気持ちが先にたち
現場に相対すると倫理観を失い
現場に相対すると「レンズを向ける行為に内在する暴力性」を自覚できなくなり
現場を離れた後も、自分の振る舞いの是非を顧みることがなく
安全な立ち位置から、事件の影響や因果について考察して盛り上がる
…
現場に遭遇すれば、普通の人はあっさりと上記のような「マスメディアと同じ醜悪な振る舞い」をする。
マスメディアだけがゴミなんじゃない。私たち一般大衆がゴミだから、マスメディアもゴミなんだ。
# 写真を撮るものとしては、観察する行為に内在する暴力性を忘れないようにしないといけない…だが私がもし現場に遭遇したら、正直なところ、抑えられる自信は無い。
言葉:「ネチズンと国家の対立は、単なる権力闘争である」
これは10年以上前、Wiredの記者が語った言葉。"ネットは自由であるべき”なんてネチズンは言うけど、結局のところは誰が主導権を握るかという権力闘争でしかない、という揶揄である。
んで、硫化水素で自殺するための情報をネット上から削除するべきか否か? - GIGAZINE。
ここにウェブ魚拓担当者の回答が掲載されているのだが…
警察の文書には、「第三者に被害が及ぶ事例が発生したので」硫化水素の製造法の掲載を自粛するよう求めている。80人以上が被害にあった香南市の事件のことだろう。「自殺を減らすため」とは書かれていない。
なのに、ウェブ魚拓担当者は「情報を隠したって自殺は減らないぞ」という旨の回答をしている。当該文書をちゃんと読まずに、イデオロギー丸出しの文章を相手に投げつけただけの幼稚な対応、見てるこっちが恥ずかしくなる。
「毒ガスを作ると周囲に被害が出るのでやめさせたい」なのを、表現の自由とか自殺は減らないとかいう話にすり替えているのは「ネットは自由であれ」という権力闘争の一環だろうか。レトリックや論理のすり替えはなにも当局やマスコミだけがやるわけではないし、世論が歪んでいない保証はどこにもない。
# ここで「世論は常に歪んでいる」などと考えてしまうと保守反動体制に…バランスと見極めが重要。
言葉:魔術は本質的には、愚鈍、無教養、もしくはアルカイックな伝承とはなんの関係もない
図説金枝篇を読んでニセ科学について考えた - あなたの正義は誰を殺しますか
種村季弘「アナクロニズム」より、H・アウホーファーの言葉。
「これまで魔術という言葉が鬼門であったのは、それが無用の長物であるためではなくて、中心概念と因果論的解式の対極にあるように思われるからであった。魔術は本質的には、愚鈍、無教養、もしくはアルカイックな伝承とはなんの関係もない。それはむしろ、おのれの生活の困難や脅威や不確かさを調整せんがための、<自然の>、無宗教の人間の試みをあらわしているのだ」
「科学的でないから呪術」なのではなく、「手持ちの技術や知識では解決できない事柄に対して用いるから科学的でない」のだ。従って呪術が科学の前段階であるという征服主義的認識も誤りで、技術や知識では扱えない、もしくは扱おうとしない領域に呪術や魔術が現れてくる。
そして、不確かな事に不確かな方法で臨むのだから、結果もまた不確かである。
これは我々がなぜ今も暦の六曜に拘ったり、地鎮祭をやったり、お守りを買ったりするのかを考えればわかる。新工場を建てるときに地鎮祭を行う経営者は「科学的ではない」のだろうか?もちろん違う。手持ちの技術や知識では対応できない不確かさがこの世界に存在する事をわかっているから我々は呪術あるいは魔術を扱うのである。
…
…
真の問題は、人間が"主観"と”客観"に依っているのに対し、"客観"しか扱わない現在の科学が世界を覆ってしまったことにある。芸術・音楽・文学・直感etc…"客観"だけでは世界を記述できないのは明らかなのに、「愚か者ども、理性をもって世界を客観視せよ!」と叫んでも状況が改善されるはずがない。
実際のところ、「禅とオートバイ修理技術」によってこの考え方が提示されてから30年以上経ったが状況は当時と変わっていないように思う。
言葉「偽物が精巧になればなるほど、本物との距離は広がっていく」
これはレーシングライダーの梨本圭による言葉。記憶をたよりに書いたので単語などは正しくないだろう。
物事の本質をついているような気もするが、よく考えるとそうでないような気もする、不思議な言葉。
本物の代替となるならそれは偽物とはいえない?
それとも、偽物はどこまでいっても偽物?
なんて事を考えたり。
言葉:「心せよ亡霊を装いて戯れなば、亡霊となるべし」
寺山修司「ポケットに名言を」の中で紹介されている言葉。カバラ戒律からの引用であると説明されている。
覚めたふりして戯れていると、いつの間にか熱を帯びる。自分は違うと思っていると、泥沼に片足を突っ込んでいることに気付かない。"酔いつつ醒め、醒めつつ酔う"つもりでも、端から見れば亡霊を装いし戯れ、なんてことも。
# この言葉を検索するとそこそこヒットするが、寺山修司と併せて紹介されている例は少ないようだ。あと、カバラに戒律なんてあるんだろうか?
言葉:「音楽は、それが表現している対象そのもの」
1993年に発売された「聖剣伝説2 オリジナルサウンドバージョン」がiTunes Storeで人気を維持している。
当時のCDには、作曲者である菊田裕樹氏のコメントが添えられていた。情熱あふれる言葉のすべてを、14年の時を超えて。
…
音楽はメッセージではない。
例えばそれは僕の心の中に湧き起こった様々な感情や衝動を、僕自身のものとして表現するひとつの手段ではあるのだけれども、それは決して、単なる記号であるべきではないと、僕は考える。
一般的に「音楽」と呼ばれる、ある音の連なりが、そのパターンに対応する特定の感情を引き起こすというのは事実ではあるし、ドラマに於ける劇的演出などのように、極端に突出した心理的状況を、且つ迅速に構築せねばならない場合には、そういった「音楽」が本質的に内包している感情装置としてのメカニズムが、極めて有効に働く場合も多いということは、踏まえたうえで。
それでもやはり、音楽は、ある特定の事象や情動に対応するというだけの「記号」に堕してしまってはならないと、僕は言いたい。音楽はメッセージであってはいけない。音楽は、ある事柄や状態についての情報(メッセージ)を、伝達するためだけの道具ではないはずだ。
極論を承知で敢えて言うならば、音楽は僕にとって、それが表現している「対象そのもの」である。自分のなかに内在する様々な要素、あるいは思考であり、あるいは感情であり、あるいは意識のレベルにさえ上がってこないような何か、そういった「自分自身を構成するパーツ達」を掻き集め、濃縮し、より純度の高いものに精錬し、最終的に音楽的創作という形に結晶させることこそが、音という、言葉の壁を越えて人の心に直截に働きかける表現手段を手中にした者の、目指すべきところではないかと僕は思う。
僕は音楽を創ることによって、君達に何かを言いたいのではない。君たちと美を、そして人間の心の中にある何か大切なものを共有したいのだ。僕が喜びにあふれた曲を創るとき、その喜びは僕にとって本物でありたい。僕が切ない曲を創るとき、その悲しみは真に僕の心を切り裂いているものであるべきだ。なぜなら、率直であること、嘘偽りのないことは、すべてのコミュニケーションの基本にある宝物だと、僕は信じているからだ。
今回の、聖剣伝説2というプロジェクトを手掛けるに当たって、僕が最初にしなければならなかったことは、自分の、ゲームミュージックというものに対するスタンスを明確にすることだった。音楽によって「僕自身」を表現することと「聖剣伝説2というゲーム」を表現することは、幾分重なり合う部分はあるものの、基本的には別である。その異なる二つのベクトルの間を取り結び、全体として一つのコンセプトで貫くことによって、単なるポップミュージックでも、単なるゲームミュージックでもない「何か」を創造する。それが、この仕事における、僕の出発点だったのだ。確かに、スーパーファミコンの持つ、ソフト的ハード的な制約を前にしたときに、そういう方法を選ぶことは、非常にリスキーであったと言わざるを得ないし、実際に、作業には様々な困難が付きまとった。あるいは本当に無謀な試みだったのかもしれないが、そういう類の挑戦的創作態度も、僕の身上なのだと心得ている。今はただ、その努力が無駄に終わらなかったことを感謝するのみだ。
最後に、晴れて出版の運びとなったこの作品を、今まで僕を支えてくれたすべての人達に捧げたい。心より。感謝をこめて。
きくたひろき
言葉:「共通認識からこぼれてしまったものの塊、それが心」
TVをつけるとちょうど「爆笑問題のニッポンの教養」をやっていて、哲学者の野矢さんという方が「心とは何か」という話をしていた。録画していなかったので細部が不鮮明だけど、確かこんな内容だった。
…
「他の人と認識が一致しなかった部分、納得できないんだけど取りあえず保留…そういう、共通認識からこぼれてしまったものの塊、それが心なんだと僕は思う」
…
前回?の電気自動車も面白かったし、次回「人間は失敗作だ」も面白そう。
言葉:「二流のヌーベルヴァーグを選択したい」
1992年にリリースされたZUNTATAのアルバム「ヌーベルヴァーグ」。そのライナーノートでは、VGMのあり方について語られている。
語られた言葉は、VGMだけじゃなく、すべてのポップカルチャーに通じるものだった。そのすべてをここに…
…
『クラシカルなものとして定着している多くの芸術は、その誕生時には、いびつな捉え方をされていた。「バロック」や「歌舞伎」という聞き慣れた言葉ですら、その意味は"異端"を示すものだった。
だからといって(ある意味で異端の)、VGMもいずれはポピュラーな音楽として認知されるということを期待しているわけではない。いや、むしろそうはなりたくない。60年代、トリュフォーやゴダールといった作家の映像を初めて見たときの戸惑いや驚きを、SFXや様々な映像テクニックに慣れ親しんでいる現代人にそのまま求めるのは無理だし、ジュール・ベルヌの「月世界旅行」や「海底二万哩」を今の子供たちに読ませても、当時程のときめきを感じさせることは不可能だろう。
その意味では、"ヌーベルヴァーグ"とは賞味期限つきの禁断のお菓子なのだ。それを、時代を超えて食したいと思うのならば『定型』という保存料を加えなければならない。そして、その瞬間に「ヌーベルヴァーグ」という呼称は次なるものへと逃げてゆくのである。
時代は変わっても人間の本質は変わらない、なんて誰が言ったのだろう?
誰とも違わない本質なんてつまらない。定型化して解釈付きの芸術となるよりも、二流のヌーベルヴァーグを選択したいのだ。
「泣きたいものは泣き、笑いたい者は笑え。」(ジャック・ドゥミ)』
言葉:「写真はもともと暴力的である」
観光地でスナップ写真を撮りまくり、自販機で買ったコーヒーを飲みつつ休憩する。どこかで聞いた言葉が脳裏をよぎる。「写真はもともと暴力的である」
…
他者を一方的に観察しわずかな断片のみで対象を評価するという行為は暴力性を孕む。それが己の欲望を満たすためだとしたらなおさら。
人はこの暴力性を漠然と自覚している。見知らぬ人にレンズを向けられると不快に感じるし、見知らぬ人にレンズを向けるのを避ける。
大勢の人が歩く観光地の真ん中で被写体を探してカメラを振る時、暴力性を孕む視線を同時に振りまいているという意識を頭の片隅に留めるようにしていきたい。
…
ネットで営まれる「一方的な観察行為」もまた、暴力的だといえないだろうか?




