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曖昧な言葉を使うリーダー

「しっかり○○する」
「ちゃんと○○する」
「説明していく」

最近は、こういう曖昧な言葉を使うのが流行っている。
その行為がしっかりしているのか、ちゃんとしているのか。それは本人が決めることではなく、外部からの評価によって決まることだ。具体的方策を言えないからこういう曖昧な言葉を使うはめになる。
美辞麗句に頼りすぎるとそのうち信頼を失うことになる。

あと、「絶対に○○する」や「到底○○できない」といった強い言葉も良くない。実力や保証の伴わない感情だけを前に出した言葉もまた信頼するに値しない。
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言葉:「デザインとは、"どう機能するか" だ」

The Guts of a New Machine - NYTimes.com に載っている、スティーブ・ジョブズの言葉から。

''Most people make the mistake of thinking design is what it looks like,'' says Steve Jobs, Apple's C.E.O. ''People think it's this veneer -- that the designers are handed this box and told, 'Make it look good!' That's not what we think design is. It's not just what it looks like and feels like. Design is how it works.''


「デザインとは "どう見えるか" だと思われているが、それは間違いだ」AppleのCEO、スティーブ・ジョブズは言う。
「人は、デザインを化粧箱だと思っている。デザイナーが箱を手に取り "これの見た目を良くしよう!" と言うものだと。私たちはそうは思っていない。
それは単に"どう見えるか" "どう感じるか" ではない。デザインとは "どう機能するか" だ」


何となく掴みかけてはいるけどハッキリとしない、霞がかった思考を一気にクリアにしてくれる言葉に出会う事がある。
「デザインとは "どう機能するか" だ」は、まさにそういう言葉。



ひとつの例として。
雑誌や書籍に適用されている組版は、文章や図版をスムーズに読める・見られるようにするためのノウハウ集合体であり、まさしく機能である…というのは、組版作業の経験者なら何となく理解していると思う。
ただ、これの理解のされなさというのも大きくて、それは
pukiwiki、はてなトップページの妙な恐怖感
に対する反応なんかが典型例だろうか。
感覚的・抽象的表現でデザインのマズさを表現するのはよくある事なので、「怖い」というのは文字恐怖症とかそういう話ではなく単にデザインが悪いだけということ。
適切なデザインワーク -- たとえば書籍なら組版、アプリケーションならガイドラインに従ったUI -- を経ることの重要さは、「デザインとは、どう機能するかだ」という真理を思い出すと理解しやすいと思う。

言葉:魔女狩りをよみがえらせる方法はいくつもある。

カール・セーガン「悪霊にさいなまれる世界」より。

魔女狩りをよみがえらせる方法はいくつもある。

自分の信念のみが唯一絶対に正しいのだと信じ込むこと。
自分だけが善によって行動し、ほかの者は悪によって行動すると思うこと。
神が語りかけているのはこの自分であって、信仰の異なる者には語りかけないと考えること。
伝統的な教義に異議を唱えたり、鋭い疑問を発したりするのは邪悪なことだと思うこと。
自分はひたすら信じ、言われたことさえしていればいいと考えること…

人がこうした信念の虜になっているかぎり、魔女狩りはさまざまに形を変えて、人類が存在するかぎり永久にくりかえされるだろう。


カール・セーガンはこの箇所を書いた時、最初の二つは宗教関係者やニセ科学信奉者に限らず、啓蒙主義者、科学主義者…いや、あらゆる人間に当てはまりうることに気付いただろうか。
魔女狩りの非科学性や非論理性を指摘し、「人を狂わす悪霊や魔女や悪魔といった類いは只の妄想である。裁判にそれらを持ち込むな!」と声を上げ続けた。
その結果、確かに言葉通りの「魔女狩り」、つまり「あいつは魔女の類なので裁いてください」という迷信ベースの異端審問は過去のものとなった。
ところで、「愚か者狩り」や「愚か者を集団リンチ」や「愚か者を市中引き回し」などは無くなっただろうか?
迷信や誤った教義を振り払ったとしても、「ある信念の虜」あるいは「愚か者を裁く快楽」という発動原理がある限り、魔女狩りは形を変えて発生し続ける。
そのとき持ち出されるものは、悪霊や魔女や悪魔といった旧い価値観ではなく、無知や非科学や反知性といった現代的な価値観だろう。

言葉:ただ断片が敷き詰められている。

W・バロウズ「ソフトマシーン」のあとがきより。
永田弘太郎によるバロウズ評より、カットアップやフォールドインといった技法に対しての部分。

1.
ヘミングウェイの小説は、何かあるものを言葉によって描写しようとしている。
何かとは、イメージとか思いとか、自然の力だとか、哀愁だとかそんなものである。
バロウズの小説もそうであるが、そうではない。
イメージはあるが、それはヘミングウェイのように言葉と言葉、文節と文節の間から出てくるものではない。
言葉そのものが一対一対応で持っているイメージが彼の小説の基本となっている。
そこに「深み」とか「影」とか「過去」といったものは存在しない。いうなればポップなのである。

2.
世界は語られることなく示されるだけだ。
物語は始められることもなく、完結することもなく、ただ断片が敷き詰められている。


今から15年ぐらい前、スキャナーが一般人でも何とか買える価格になった頃。
有名な風景、絵画、彫刻etc…の写真をスキャンしてコラージュ作品に仕立てて、「この世にオリジナルなんて無い!」と叫んだ卒業作品があった。
私には、その作品は「断片の寄せ集め」にしか見えなかった。
個々の断片に価値は宿っていたが、作品そのものに新たな価値が宿っているわけではなかった。

いかに革新的で野心的で諧謔的な手法であっても、うまく作らないとダメというのは、「ソフトマシーン」のあとがきでも触れられている。

言葉:問題は、我々の思考形態が、無限の世界という仮定の上に成り立っていることである。

音楽を盗むこと: それは悪か善か?
この記事を読んで、思い出すのはアシモフの言葉。
「問題は、われわれの社会、われわれの文化、われわれのあらゆる思考形態が、無限の世界という仮定のうえに成り立っていることである」

そこに森があるからといって木々を刈り取るだけだと、砂漠化という未来が待っている。
同様に、音楽や映像やマンガやゲームも、無限に供給されるものではない。
TV局の電波は永遠に発信されるの?
インターネットのコンテンツは永遠に供給されるの?
コンテンツの質や量は、これからも高まり続けるの?
何を根拠にそう考えるの?

techcrunchの記事のような寝言を吠える人間は、コンテンツの有限性が理解できていない。
付け加えると、「あらゆる人間がコンテンツを盗んだらどうなるか」という想像ができていない。
想像どころか、中国や韓国あたりでこの結論はすでに出ているのに。

コンテンツに対して対価を払うことだけが、消費することしかできない私ができる、唯一の文化維持活動なのだ。
 それが商品ならば、代金を支払う。
 それがフリー公開なら、感謝の言葉を作者に伝える。
 リンクを設けて、作者に対価が届くチャンスをわずかでも拡大する。
ささやかではあるが、無力というわけでもないだろう。

言葉:信じることは苦しい。純粋ではいられないからだ。憎悪ももちろん苦しい。でも純粋でいられる。

森達也「それでもドキュメンタリーは嘘をつく」より。名言の極み。

憎悪を発散させていれば,人は純粋でいられるという。妊婦たらい回し事件で医者を罵る者も、そんな彼らを「事情が分かってない馬鹿」と見なして罵る者も、等しく純粋なのだろう。
信じることは難しい。沸き上がる感情を抑えこみ、葛藤の故に採られる「信頼」という選択。しかし、「憎悪」はその純粋性ゆえに、力を振るい続けている。

言葉:忌々しいものが地上に現出する

友人がニコニコ大会議に行って来たの話より。

コロッセウムで必死に猛獣と戦う奴隷は、観客の多くが自分の惨殺ショーを期待していることに気付いただろう。
当時のローマ人にとって、コロッセウムでのリアル殺戮ショーは最先端の娯楽だった筈だ。それを初めて見たローマ市民は、その感動や興奮や陶酔を熱っぽく友人に語ったに違いない。
そして現在、ある場所でコロッセウムと同じことをして「これはネットの最先端だ! 面白い!」と叫ぶ声を聞いた。
我々はローマ時代から進歩したと言えるのだろうか?

寺山修司「ポケットに名言を」より。
ひとは個人が社会に対して自己を主張するために行うすべての違反行為や、さらに犯罪についてさえも言訳をすることができる。だが故意にある人間が人間を物にまでおとしめようと努める場合には何ものも償うことの出来ない忌々しいものを地上に現出させることになる。
-- シモーヌ・ド・ボーヴォワール「第二の性」


言葉:マスコミの批判をするのに、マスコミの言葉を持ってするな

秋葉原の通り魔事件に関係して、この言葉を思い出した。哲学者の内田樹による言葉。

現場に相対すると興味本位の気持ちが先にたち
現場に相対すると倫理観を失い
現場に相対すると「レンズを向ける行為に内在する暴力性」を自覚できなくなり
現場を離れた後も、自分の振る舞いの是非を顧みることがなく
安全な立ち位置から、事件の影響や因果について考察して盛り上がる

現場に遭遇すれば、普通の人はあっさりと上記のような「マスメディアと同じ醜悪な振る舞い」をする。
マスメディアだけがゴミなんじゃない。私たち一般大衆がゴミだから、マスメディアもゴミなんだ。

# 写真を撮るものとしては、観察する行為に内在する暴力性を忘れないようにしないといけない…だが私がもし現場に遭遇したら、正直なところ、抑えられる自信は無い。

言葉:「ネチズンと国家の対立は、単なる権力闘争である」

これは10年以上前、Wiredの記者が語った言葉。"ネットは自由であるべき”なんてネチズンは言うけど、結局のところは誰が主導権を握るかという権力闘争でしかない、という揶揄である。

んで、硫化水素で自殺するための情報をネット上から削除するべきか否か? - GIGAZINE
ここにウェブ魚拓担当者の回答が掲載されているのだが…
警察の文書には、「第三者に被害が及ぶ事例が発生したので」硫化水素の製造法の掲載を自粛するよう求めている。80人以上が被害にあった香南市の事件のことだろう。「自殺を減らすため」とは書かれていない。
なのに、ウェブ魚拓担当者は「情報を隠したって自殺は減らないぞ」という旨の回答をしている。当該文書をちゃんと読まずに、イデオロギー丸出しの文章を相手に投げつけただけの幼稚な対応、見てるこっちが恥ずかしくなる。
「毒ガスを作ると周囲に被害が出るのでやめさせたい」なのを、表現の自由とか自殺は減らないとかいう話にすり替えているのは「ネットは自由であれ」という権力闘争の一環だろうか。レトリックや論理のすり替えはなにも当局やマスコミだけがやるわけではないし、世論が歪んでいない保証はどこにもない。

# ここで「世論は常に歪んでいる」などと考えてしまうと保守反動体制に…バランスと見極めが重要。

言葉:魔術は本質的には、愚鈍、無教養、もしくはアルカイックな伝承とはなんの関係もない

図説金枝篇を読んでニセ科学について考えた - あなたの正義は誰を殺しますか

種村季弘「アナクロニズム」より、H・アウホーファーの言葉。
「これまで魔術という言葉が鬼門であったのは、それが無用の長物であるためではなくて、中心概念と因果論的解式の対極にあるように思われるからであった。魔術は本質的には、愚鈍、無教養、もしくはアルカイックな伝承とはなんの関係もない。それはむしろ、おのれの生活の困難や脅威や不確かさを調整せんがための、<自然の>、無宗教の人間の試みをあらわしているのだ」

「科学的でないから呪術」なのではなく、「手持ちの技術や知識では解決できない事柄に対して用いるから科学的でない」のだ。従って呪術が科学の前段階であるという征服主義的認識も誤りで、技術や知識では扱えない、もしくは扱おうとしない領域に呪術や魔術が現れてくる。
そして、不確かな事に不確かな方法で臨むのだから、結果もまた不確かである。
これは我々がなぜ今も暦の六曜に拘ったり、地鎮祭をやったり、お守りを買ったりするのかを考えればわかる。新工場を建てるときに地鎮祭を行う経営者は「科学的ではない」のだろうか?もちろん違う。手持ちの技術や知識では対応できない不確かさがこの世界に存在する事をわかっているから我々は呪術あるいは魔術を扱うのである。



真の問題は、人間が"主観"と”客観"に依っているのに対し、"客観"しか扱わない現在の科学が世界を覆ってしまったことにある。芸術・音楽・文学・直感etc…"客観"だけでは世界を記述できないのは明らかなのに、「愚か者ども、理性をもって世界を客観視せよ!」と叫んでも状況が改善されるはずがない。
実際のところ、「禅とオートバイ修理技術」によってこの考え方が提示されてから30年以上経ったが状況は当時と変わっていないように思う。

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ああ、沖縄に行きたい…

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