スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ニセ科学批判 vs ニセ科学批判批判について

「ニセ科学批判 vs ニセ科学批判批判」というのは長過ぎるので、「批判 vs 批判」と表記することにしよう。
最近考えていたことがある程度まとまったので、断片を繋ぐ形で書いてみる。
私の中では、「批判 vs 批判」問題はこれでカタがついた。後は野となれ山となれ~。



「批判 vs 批判」において科学の更新性や真理の定義についてやり合っていることがあるが、あれは意味がない。
なぜなら、法則が差し代わろうが真理の定義が変化しようが、「科学は正しい」という合意が変化していないから。

最も重要なこと。
「正しいこと」は、権威を帯びる。
これは文化や規範を超えて働く、人類共通の法則だと私は考えている。
この「正しいこと」は種類を問わない。神や科学や真理や道(タオ)やダルマ、何でもよい。
例えば、ある人が「正しいこと」を発言し、聞き手もそれを「正しいこと」だと認識した場合、その発言や発言者は権威を帯びる。
権威とは、大辞泉によると「他者を服従させる力」のことで、その強力さゆえ取扱には細心の注意を払わねばならない。

・理性的で合理的な"科学的思考"は、正しい。
・ニセ科学批判者も、ニセ科学批判批判者も、科学は正しいと認識している。
・ニセ科学批判者は、正しいことを言っている。
このような構造が出現することで、ニセ科学批判者は自動的に権威を帯びる。
だから、彼らの発言は「権威を帯び、強制力を持つ言葉」として放たれてしまう。

#
「科学は正しい」という共通認識に縛られつつ議論を行っているという形は、宗教論争といえなくもない。「お前は間違っている」と言いはしても、「科学は正しくない」とは誰も言わないわけだ。

批判批判者が述べる「科学は絶対不変じゃない」「科学は完全じゃない」という反論は、権威を行使される側が発するなけなしの反論と捉えるべきだろう。
そんな反論を述べたとしても、上記の構造が維持されている限りニセ科学批判者の上位性は崩れない。なにより権威が消えてくれない。

「批判 vs 批判」の争いを止めるには上記のような構造を出現させないようにすればよいけど、双方が「科学は正しい」と思っているのでこれは無理な相談だ。
だから、「正しいこと」から発生する権威 =「他者を服従させる力」の取り扱いを注意深くやるしかない。
したがって、「批判 vs 批判」の問題は、ニセ科学批判者の態度や振る舞いの問題に帰結する。

親と子、教師と生徒、上司と社員、警察と一般市民など、「相対しているうちの片方が、権威や権力について相手を上回っている状況」において、権威側が、己に権威が備わっていることを自覚しない振る舞いをしてしまうと悲惨な結果を招きやすい。
自分がなぜ相手より優位に立てているのか。相手はなぜこちらの発言を真っ向から否定しないのか。一般市民はなぜ自分にあっさり従うのか。
自分が帯びている力の強さや性質を知らないと、その気も無いのにいろんなものを傷つけかねない。

おまけ
西洋(プロテスタント)の合理的思考や科学的思考というものは「神 → 真理 → 科学なので、科学の探究は神への道」という根拠がある。
西洋史の視点からいうと、一神教を信仰することと合理的・科学的思考を追求するというのはセットの概念なのだ。
ところが、日本が近代化する際には、合理的思考や科学的思考は輸入したが一神教は輸入しなかった。
では、合理性追求や科学探究の根拠として日本人が一神教の代わりに据えているものはいったい何か?
それは儒学や朱子学ベースの、勤労や勉学を尊重する概念じゃないかと思う。
つまり、プロテスタントは「神を信じる、だから科学を探究する」なのだが、日本人は「勤労や勉学を尊重する、だから科学を探究する」という図式ではないのかと。
逆に言うと、日本では「科学に背を向ける奴は怠け者でアホで自己責任」という考えを裏でしてしまいがち、というか。
プロテスタントの根本主義者が「科学に背を向けるものは神の真理に背を向けている」と言っちゃうのと、どっちが寒いだろうか。(比べるこっちゃないな…)
スポンサーサイト

「胎児はいつからニンゲンとなるのか?」についての考察

胎児はいつからニンゲンとなるのか? - 地下生活者の手遊び について。

ブックマークにて「雑だ」とメモしておいたので、どこが雑なのかを説明してみようと思う。

キリスト教は「人間の条件とは何か」というのをたいへん重視する。
また、神は人間と契約するし、神のみが人間の魂を支配する。神は人間の理の外にある。
すなわち、「人間の条件を定義しうるのは神だけ」となる。だから、「人間の定義という重要な事柄が、人間の都合や情況に応じてコロコロ変わる」などという発想は、カトリックではハナっから許容されないのである。
キリスト教がこういう思考をするのは、奴隷制を経験しているからだそうだ。橋爪大二郎の宗教社会学入門から引用すると、

人間が人間の奴隷となり、人間が人間の主人となる間違った状況を解消するには、神が人間の主人であることにすればよい。それなら、人間は奴隷状態を否定できる。これが一神教のアイデアなのです。


という論理になっている。

上記の記事ではホムンクルスや魂の付与の話が出ているが、ここで注目するべきなのは「昔から、カトリックは理性的知見に基づいて人間の条件を線引きしようとしている」ということ。
バチカンが科学大好きなのは不思議でもなんでもない。「人間の都合に左右されない」「その存在は不変」「誰から見ても正しい」という自然科学の特徴は、明らかに真理と共通している = 神性を帯びるものだからだ。
「胎児はどの時点で人間なのか」というお題を解釈するにあたって、線引き行為を科学的事実という"真理"によって行うのは、バチカンにしてみれば当たり前の話だろう。
また、受胎を人間誕生とする線引きそれ自体は解釈でしかなく、時間が経てばまた変更されうる。
プロテスタントから見れば「まーたバチカンが聖書に載ってないオレオレ解釈してるよ」という感じかもしれない。

日本人が得意とする「イイカゲンでいい」という発想は、言い換えれば「基準は曖昧にしておいて、状況に応じて変えればいい」ということで、これは山本七平が "日本教" と呼んだ、汎神論からなる日本人特有の思考枠組だ。
この記事の根本は、実のところ「日本教の思考枠組」と「一神教の思考枠組」との対立にある。
ところが、記事を書いている本人がこれを自覚していないように見える。
さらに、科学の源流についての認識、すなわち「一神教の影響下で発達した神学や哲学や科学などの「真理探究部門」のうち、最終的に科学だけが"真理"の看板をがっちり掴んで現在に至る」という認識を持っていない。
だから、「カトリックの態度は疑似科学的で不誠実」などといったピンぼけを起こしてしまう。
手持ちの物差しが日本教の思考枠組でしか通用しないことに気付いていない、というわけ。

まとめると、
・キリスト教について
・科学と宗教の関係について
・汎神論と一神教との思考枠組の違いについて
これらについて無知なまま主張を展開しているので雑になってしまっている、という感想です。

wii バーチャルコンソールのスターブレードが完璧だった

wiiリモコンで照準移動、オート連射を搭載。
ソルバルウで目立った処理落ちもまったく無く、18年前の感動がそのまま蘇る。


動力源を破壊され、巨大要塞アイスバーグは崩壊を始める。連鎖的に爆発が起きるなか、自機ジオソードは辛くも脱出ルートを発見した。飛び込んだ矢先、目の前には自分と同じく脱出をはかる敵司令機「コマンダー」の姿が。
崩壊していくアイスバーグをバックに、敵司令機「コマンダー」と対峙するラストバトルは今見ても震えるほど素晴らしい。ポリゴンがまだ目新しかった時代にナムコが残した大いなる遺産だ。

# 鉄拳5に収録されているスターブレードには、スタッフクレジットに細江慎治の名前がなかったらしいが、バーチャルコンソール版にはちゃんとありました。

CrossOver Macで東方星蓮船(体験版)をプレイ

月刊コミックRexに東方星蓮船の体験版が付いてくる!
というわけで、CrossOver Mac 7.1.0 でプレイできるかどうか試してみた。

1. DirectX November 2008 のインストール
CrossOver Macの場合、東方星蓮船は DirectX November 2008 以降でないと動作しない。
星蓮船に付属している DirectX は古いのでインストールしても駄目っ…!
というわけで、DirectX Redist (November 2008) からインストーラを入手して、ボトルにインストールしましょう。

2. 東方星蓮船 体験版のインストール
風神録や地霊殿と同じで、CDを挿入してsetup.exeを起動します。
デフォルトだと、
~/Library/Application Support/CrossOver/Bottles/ボトル名/drive_c/Program Files/上海アリス幻樂団/東方星蓮船体験版/th12.exe が体験版の本体になります。

3. 気が付いた点
・custom.exeが起動できない。
・会話文やMusic Roomの文字は相変わらず読みにくい。
・フルスクリーンでのプレイは問題なし。
・スクリーンショットの撮影ボタンを思いっきり連射するとフリーズした。

総じて、プレイに問題はありません。
難度は地霊殿よりもかなり下げられて、遊びやすくなっています。

sirensen_t_01

sirensen_t_02

sirensen_t_03

sirensen_t_04

sirensen_t_07

桜の季節:平和記念公園に行ってきました

桜の季節! ということで、平和記念公園に行ってきました。

0904heiwa_001

0904heiwa_002

0904heiwa_003

0904heiwa_004

0904heiwa_005

0904heiwa_006

0904heiwa_007.jpg

桜は八分、いや七分咲きぐらい? 来週の土日が最後のチャンスかもしれない。
上から3・4枚目の写真に、水上コンサートの様子が写っています。
水上コンサートの優雅なサウンドを聞きつつのんびりと過ごす。遊覧船に乗ってのんびりする。シートを敷いてのんびり花見をする…

ところで、これらの写真のうち上から5枚は、去年の夏に大学生がダンスを踊った場所を撮っています。
件の大学生を不謹慎だと思われた方は、是非この季節に広島に来ていただいて、実際の平和記念公園がどういう雰囲気なのかを体験してほしい所存です。
公園を散策したり、原爆資料館で言葉を失ったり、原爆ドームから徒歩2分 - とらのあな広島店に立ち寄ったり、比治山のマンガ図書館を訪ねてみたり、宮島に足を伸ばしてみたり…
と、プランも様々ですよ。

言葉:問題は、我々の思考形態が、無限の世界という仮定の上に成り立っていることである。

音楽を盗むこと: それは悪か善か?
この記事を読んで、思い出すのはアシモフの言葉。
「問題は、われわれの社会、われわれの文化、われわれのあらゆる思考形態が、無限の世界という仮定のうえに成り立っていることである」

そこに森があるからといって木々を刈り取るだけだと、砂漠化という未来が待っている。
同様に、音楽や映像やマンガやゲームも、無限に供給されるものではない。
TV局の電波は永遠に発信されるの?
インターネットのコンテンツは永遠に供給されるの?
コンテンツの質や量は、これからも高まり続けるの?
何を根拠にそう考えるの?

techcrunchの記事のような寝言を吠える人間は、コンテンツの有限性が理解できていない。
付け加えると、「あらゆる人間がコンテンツを盗んだらどうなるか」という想像ができていない。
想像どころか、中国や韓国あたりでこの結論はすでに出ているのに。

コンテンツに対して対価を払うことだけが、消費することしかできない私ができる、唯一の文化維持活動なのだ。
 それが商品ならば、代金を支払う。
 それがフリー公開なら、感謝の言葉を作者に伝える。
 リンクを設けて、作者に対価が届くチャンスをわずかでも拡大する。
ささやかではあるが、無力というわけでもないだろう。

プロフィール

waverider

Author:waverider

ああ、沖縄に行きたい…

最近の記事
カテゴリー
最近のトラックバック
ブログ内検索
RSSフィード
リンク
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。