スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

the last of us プレイしました

話題のthe last of us 一通りプレイしました。

物語重視のゲームだけど、要所要所に入るムービーにイライラを感じないのはカメラワークやカット割りの品質が高いからなのか、セリフの量もトーンも抑えめだからだろうか。映像を短くカットしてプレイヤーに想像を喚起させる作りになっているのががいい。
隠密暗殺がメインつまりパターンゲームなので、敵の配置や経路を把握しないままだと死あるのみ。意外とゲームメカニクス重視の内容で、各攻撃アイテムの特性や残量、それぞれの行動の音の大きさなどを理解しつつ攻略を考えないといけない。
所持アイテムを絡めて複数のアプローチが取れるようになっていて、見つからずに倒すとなるとまずは背後からの締め上げ、そして火炎瓶を投げる、爆弾を投げる、巡回路に爆弾を置く、弓矢で狙撃…と、リスクとリソースに応じて手を変えていく必要があるのが面白い。

グラフィックも表現もリアルだけど、メカニクス重視なので演出と反応が合っていない部分もある。爆弾の爆発音に敵が鈍感だったりとか。首締めや障害物乗り越えは無音判定なのに、引き出しを開ける動作や武器での殴りがその演出以上に大きな音判定になってたりする。
やっぱり一番目立つのは味方AIの不備だろう。味方の行動は基本無音なので気にしなくてもいいんだけど、敵のいる方に勝手に移動する、敵との位置関係を考えずに隠れる、プレイヤーを押すなど実にゲーム的な動きをする。

ゲームの作りとしてはユーザーから嫌われがちないわゆる「映画的」なものなんだけど、最小限だけを見せる高品質なムービー、移動シーン中にひたすらロード、イベント時にカメラのオート移動を排してL3ヒントボタンにしたりと、プレイヤーからコントロールを奪わない工夫が徹底されているのが大きいのだと思う。
スポンサーサイト

iOS フラットデザインの正体

「フラットデザインとは印刷物デザインのことである」というのが真理であってそれ以上の説明はいらない…筈なんだけど、それだとよく見かける芸術的議論と同じく、何も言ってないのと同じだ。だから少し長い話をする。

フラットデザイン = 印刷デザイン
フラットデザインと聞くと何か答えのはっきりしない怪しげな宣伝文句っぽい。そういうときは、私たちの最も身近にあり、小さい頃から慣れ親しんでいて、長い歴史を持つフラットデザイン体系を思い出すことにしよう。
それは、印刷デザインである。本は私たちの身近にあるし、小さい頃から触れてもいるし、活版印刷は400年を超える歴史がある。
この世界は印刷物で満ちている。印刷物こそ最も身近なフラットデザインであり、私たちはフラットデザインだらけの世界に生きている。新聞に本に雑誌はもちろん、街にある様々な案内板、高速道路の道路案内…フラットデザインでないものの方が珍しいのではないか。
ジョブズが今の時代の人間なら、スタッフを外に引っ張りだして「見ろ、フラットデザインだらけじゃないか!」と詰め寄ったかもしれない。
印刷物はなぜフラットデザインを好むのか。まずコストの問題。全てをフルカラーで作るよりも、素材の地を生かして最低限の色数で印刷した方が安いし速いし品質も安定する。
色数を少なく抑え、重要な要素だけに着色したり色をグループ分けや意味の付加に使用すれば、視認性と情報伝達性を同時に且つ低コストで達成できる。
そして組版やタイポグラフィは、誌面に構造をもたらすための最も低コストかつミニマルな方法である。
印刷物におけるフラットデザインとは、「量産性と情報伝達性を重視した "現代の要請に沿った" モダンなデザイン手法」といえるだろう。

印刷デザイン - 組版
印刷物は組版によって構造が作られる。
本文を紙の端から少し離して置くことで、本文はひとつの塊として認識される。文字の大きさや強弱や位置関係に差をつけて、見出しやキャプションを創り出す。余白を適切に配置して、コンテンツごとの境界を設ける。
組版とは、タイポグラフィ、余白、空間配置などのミニマルなテクニックを組み合わせて、誌面に秩序や構造を生み出す作業のこと。
逆に言えば、そうやって秩序や構造をもたらさないと、誌面の可読性が維持できない。これがピンと来ないのであれば、「可読性の悪い誌面」つまりそこらへんのWebサイトを見てみるといい。それらが本や雑誌よりも読みにくい理由はいろいろあれど、「Webページは、出版物ほど精緻にレイアウトされていない」というのが原因のひとつである。
# 組版がどのぐらいの精緻さを要求するかについては、日本語組版処理の要件(日本語版) を見てもらうと少しイメージが掴めるかもしれない。

印刷デザイン - 抽象的なシンボル
少し複雑な誌面では、ひとつのページに写真や図画を幾つも含んでいる場合がある。そして例えばタウン情報誌などで「徒歩」を表す靴アイコンや「駅」を表す電車アイコン、「見出し」を表す丸印などを使いたいとしてみよう。
このような「情報ナビゲーションに使用する記号やアイコン」を写実的に表現してしまうと、肝心の写真などと区別がつきにくくなる。
ナビゲーションシンボルをピクトグラム化つまり抽象化する理由は、「本文や写真などの"コンテンツ"と区別するため」である。
ナビゲーションは機能に徹するべきであり、コンテンツ(本題)と混同されてはいけないし、コンテンツを差し置いて自己主張してもいけない。

印刷デザイン - 明瞭さ
出版の歴史というのは聖書の写本から始まったらしい。最初の写本はすべて手書きで、文字や挿絵も装飾感あふれていた。
そのうち、写本職人たちはゴシック体という書体を好んで使うようになった。その理由としては、文字が細く同じスペースにより多くの文字を書けたこと、当時ゴシック様式が流行っていたことなどによる。
活版印刷の時代でも同じようなことが起きた。初期にはイタリックなどの流麗な書体が生み出され、時代が進むとより明瞭なディド体などが現れる。
明瞭さというのは「何の文字が書いてあるのかが分かりやすい」ということである。筆記体よりもサンセリフ(明朝体)の方が読みやすいといったら分かってもらえるだろうか。趣味的な楽しみよりも情報性を重視するという時代の要請がそうさせる。
明瞭さはまた、組版での余白の取り方や、ナビゲーションシンボルの抽象性とも関係がある。余白やシンボルが機能性に徹して自己主張を最小限にすることで、紙面上のコンテンツ(本題)がより明瞭に浮き上がる。コンテンツ(本題)の視認性の良さも情報伝達性のひとつといえる。

実世界メタファー - これまでのGUI
1987年に発行された Macintosh Human Interface Guidelinesでは、インターフェイスデザインの軸に「実世界のメタファー(見立て)」を使いなさいとした。

コンピュータを作業机に見立てたうえで、
ユーザー ←→ 実世界メタファー ←→ コンピュータ命令
のように、人と機械とを実世界メタファーで仲介する

というパラダイム。
例えばデスクトップ上で、ユーザーが「書類をフォルダに投げ込む」という疑似動作を行うと、コンピュータでは「ディスク上のとある区画にファイルデータを移動する」という操作が実行されるというわけ。
補足すると、コンピュータへ命令を下すグラフィック要素は押しボタンを模している。コントロールパネルという言葉が示すように、実世界メタファーには機械を動かすための操作卓という概念も強く現れている。

実世界メタファーに対する誤解 - スケアモーフィズム
スケアモーフィズムというのは偽物のデザインである。例えば事務所などにある安い机を思い出すといいだろう。「実際は木目なんて付いていないものに、高級感を出すべく木目調のシートを貼る」のがスケアモーフィズムである。
この言葉が使われだしたのは、iOSのメモ帳に紙のようなテクスチャーを貼ったり、GameCenterの背景にポーカー台のようなグリーンマットテクスチャーを貼ったりしだしてからである。ジョブスや退社したスコットはこのデザインを推していたらしいが、そのせいでiOSの装飾様式はアプリごとにバラバラだった。
初期Macの実世界メタファーはユーザーにとっての分かりやすさを最優先していて、過度に飾られたインターフェイスを推奨していなかった。「写実的に表現すれば使いやすい」と考えるのはGUIを正しく理解していない。「ユーザーがすでに持っている知識を利用する」というのがGUIの肝だからだ。
「iOS 7」における、デザイン哲学のせめぎ合い « WIRED.jp にあるように、「スケアモーフィズムは解像度の高さをアピールするために採用された」というのが本当のところだろう。
ジョブズは以前から思いつきでUIをいじることがあったのを思い出す。Mac OS Xのベータ版は、メニューバーのど真ん中にブルーのアップルマーク(押せない。本当にただの飾りだった)があったり、ユーティリティアプリのアイコンがグレートーンだったりした。QuickTime4はクラシックなTVをモチーフにした派手で場所をとるスキンを持って登場した。こういった、装飾性が使い勝手を妨げる類いのデザインは、ユーザーからの不満により早々に修正されてきた。

高解像度が実現したデザイン
本当のことを言えば、インターフェイスの装飾性というのは何か特別な理由がある限り変える必要が無い。しかし人はずっと同じ装飾を目にすると飽きてしまうものだし、見た目が変わらないと新しくなった気がしなかったりする。
というわけで商業的な理由によりMac OS XにはAquaそしてAluminumという新しい装飾が採用され、Windowsシリーズもその流れに追随した。そしてモバイル分野で遅れを取ったMicrosoftはWindows Mobileを刷新する際にOSの名前をWindows Phoneに変え、さらにMetro UIと呼ばれるフラットデザインを全面採用した。
スケアモーフィズムは「レティナディスプレイで映える装飾」だったけど、次に続くフラットデザインも事情は同じ。印刷デザインと同じレベルの美しくシンプルな外観を実現するには、印刷デザインと同じレベルの解像度が必要になる。
例えば、レティナでない従来のディスプレイで、PDFやWebページは印刷物と同じぐらい美しく表示されて…いない。フォント、写真、図版、いずれも解像度が低いせいでボヤけて見える。
フラットデザインもまた、レティナディスプレイによって実用できることになったデザインといえる。

実世界メタファーとフラットデザイン、両者の違い
従来のGUIとは、仮想の作業机を定義したうえでの実世界メタファーだと書いた。アプリケーションも同じく実世界メタファーを仲介して操作する。メニューを選び、ボタンを押し、スライダーを動かし、スイッチを切り替える。手作業のまねごとをユーザーが行う。
つまり従来のGUIは、作業机の上で機械や文房具などを操作しているというパラダイムなのだ。Macは今も昔も机の上で使うものだし、ノートパソコンについては置き場所が机の上から膝の上に変わっただけのことだ。そして後発のiOSもこのパラダイムを受け継いでいた。
対して、フラットデザインとはここまで書いてきた通り印刷デザインを源流に持つ。そしてiOSはモバイル機器であり手に持って使う。さらにいえば、iOSはマルチウインドウシステムを実質持っておらず、すべてのアプリがフルスクリーンの画面乗っ取り型になっている。
手に持って使い、その平面すべてが単一の領域であるもの。それは印刷物、さらに手帖、本、ノートといったものが近い。
だからフラットデザインのパラダイムは、「紙面」と定義できるのではないか?

操作できる紙面 - Webページ
実世界には、ユーザーの操作を受け付ける紙面というものは存在しない。私たちは印刷物を見ることしかできなかった。ところが最近では、「操作を受け付ける紙面」が急速に普及してきた。それはWebページのことである。
ハイパーテキストは情報を繋いで参照する。リンクが内蔵された単語をクリックするとページがジャンプする。最初はそれだけだったのが、ブラウザの開発競争に伴って画像を表示するようになり、画像にもリンクが内蔵されるようになり、GUI的な押しボタンに留まらず入力欄やプルダウンメニューなども表現できるようになっていった。Webページはいまや「ユーザーが操作できる文書」となっている。

紙面上の異物 - Webページ
ただ上述のように、Webページの操作エレメントは従来型のUIデザインを踏襲していた。なんだかんだいってもそれはOS上での出来事であり、OSの持つ標準コントロールを模倣するのが理にかなっている。
今までならそれで問題なかったが、印刷物と同じレベルの解像度を持ち得る平面上ではどうだろうか?
現実の印刷デザインと同じ表現体系(組版、タイポグラフィ、情報ナビ要素)を備えた美しい平面に、なぜ実世界メタファーのようなメカニカルな異物を持ち込まないといけないのか? …と考えるデザイナーがいてもおかしくはない。

フラットデザイン
現在の混乱したWebページと違い、フラットデザインはパラダイムを統一して異物を排除する。
フラットデザインは実世界メタファーを介して操作するのではなく、紙面に使われている情報ナビ要素 = 見出し、ピクトグラム、「<」などの文字記号etc…といったものに触れて操作する。Webページが採用している「リンク機能をもつ語句は色が異なる」も援用する。実世界メタファーを介する代わりに、「紙面を直接操作する」わけだ。

従来のGUI:作業机。
ユーザー ←→ 実世界メタファー ←→ コンピュータ命令


フラットデザイン:紙面。
ユーザー ←→ 紙面上の情報ナビ要素 ←→ コンピュータ命令


のように、フラットデザインになることでパラダイムも仲介者も変化する。

混乱
もちろん混乱は起きる。パラダイムも仲介者も変わってしまうことで混乱が起きないわけがない。
「ユーザーが操作できる紙面」としては前述の「実世界メタファーを混在させたWebページ」ぐらいしか前例がなく、その肝心の実世界メタファーを失ってしまうとあれば、ユーザーはどれが操作対象なのか分からなくなる。知らないものは使いにくいという真理。
フラットデザインの入力系には新たなデザイン規範が必要になる。ジャンプとして動作する文字列は色を変え、接頭部に「<」などのナビ記号を付ける。タッチすることでアクションが起きるものはデザインを絞り(四角で囲んだ文字列、アイコン、ハイパーリンク)、それらのデザインを別の用途に使わない…など。
開発者は今までと異なるデザインルールを学ぶ必要があるし、実世界メタファーよりも制限は増えている(ただしカオスは減る)。ユーザー側も再学習が必要になる。

モバイル時代のUI
コンピュータはずっと長い間、机に置いて使うものだった。実世界メタファーはモバイルという概念が現実的ではなかった頃に生まれ、今日まで大きな変更もなく使われてきた。それに対し、コンピュータの事情はずいぶん変化した。
フラットデザインとは、コンピュータが「手元で使う機械」になり、モニタ解像度が印刷物と肩を並べるほどに上がり、常時携帯機器としてさらなる情報伝達性が求められるようになった、現代のコンピュータ事情に対するひとつの回答、なのだろう。
これまで慣れ親しんできた実世界メタファーを捨てるときが今なのかどうかは分からない。四半世紀以上の長きにわたり実用に堪えた概念について時代遅れの烙印を押すのは勇み足というものだ。
ただ、デザインの世界でいえば、実世界メタファーはあくまでマンマシン・インターフェイスだった。現代社会は印刷物に載せられたフラットデザインですでに覆いつくされている。コンピュータのGUIがフラットデザインになるのであれば、それはコンピュータが機械的で無骨で冷たいモノから、紙のようなもっと「当たり前の存在」として認識されるきっかけになるのかもしれない。

フラットデザインとは何か

フラットデザインとは何か

iOS7のUIには俗にいう「フラットデザイン」が採用された。Win8しかりAndroidしかり、いま流行のやつ。
では、フラットデザインとはいったい何だろうか。


ネットを巡ってフラットデザインについて述べられた記事を読むと、

立体感が無くフラットで
アイコンは抽象的で
モダンなもの

というがフラットデザインの条件らしい。

この前Appleをクビになったスコットさんは、スキュアモーフィズムという概念を押し進めていた。写実性を追求したデザインということらしく、フラットデザインとは逆の発想である。
この二つの概念の争いは、モダンデザインvs写実デザインの争いにも見立てられることもある。
「デザインとは機能である」という真理に従えば、デザインの芸術的側面はここでは捨てておいたほうがいい。
だから、もう少し具体的な話をする。

AppleのUIはMacから始まった。少し前にこのブログで ヒューマンインターフェイスデザインの原則(1987) - Macintosh Human Interface Guidelines を載せたけど、その冒頭にくるのは「実世界のメタファー(見立て)」であり、インターフェイスの諸機能を実世界に存在するもので説明するやり方だ。つまり

書類を入れるものはフォルダの形をしている
押せる箇所はボタンの形をしている
画面は"机の上"であり、書類やフォルダを置ける

という、現在のGUIの基本ともいえるアプローチである。

対して、フラットデザインとはどういうアプローチなのか。それは「印刷物のデザイン」である。
例えば、本や雑誌を手に取ってみて見てみればいい。種類は例えば情報誌や図鑑のようなものが分かりやすくて良いだろう。
その誌面にスキュアモーフィズムはあるだろうか。目次や引用などのナビゲーションは機械的なボタンやスイッチなどの形をしているだろうか。
恐らくそうはなっていない。もっと抽象的で、カラフルで、立体感の無い、"フラットデザイン" で構成されているはずだ。

フラットデザインへの移行というのは、デザイン言語の根幹が「実世界のメタファー(見立て)」から「印刷デザイン」に変わるということ。見た目だけではなく、パラダイムが変わるのだ。
「印刷デザイン」が軸になるということは、組版やタイポグラフィの技法 -- 余白の大きさ、空間配置、文字のサイズやスタイル、抽象的且つ平面的なスタイル -- などが、デザインノウハウにおいて大きな役割を占めることを意味する。

フラットデザインがGUIとして振る舞えるようになった理由には、Webの存在がある。
Webは始まった当初から印刷デザインを模倣していた。というより、見出しがあり、本文があり、図や写真がある「様々な要素の複合物」としてWebを定義した場合、その方面で遥かに歴史のある印刷物を模倣する形になるのは当然だろう。
そもそも、Webを記述するhtmlは「 "文書" の機能を拡張する」という目的で生まれてきた。ページをめくるだけでなく、特定の語句を"ポイント"することでジャンプするような "操作インターフェイス" を持った誌面を実現するものとして。
誌面がインターフェイスを持てるのなら、印刷デザインをそのままコンピュータのインターフェイスデザインに用いるという発想があってもいい。Webブラウザで多くの時間を費やすのが当たり前になった現在なら特にそうだろう。


フラットデザインを推し進めることによる不安はある。
まず、機能のカバー範囲でいえば「実世界のメタファー」>「印刷デザイン」なので、フラットデザインでカバーしきれない分野の扱いが難しくなる。従来の方式に留まる選択も時には必要になる。
次に、最初はユーザーがついてこれない。これまでずっとGUIは「実世界のメタファー」を軸としていて、その軸が変わってしまうのだから確実に混乱が起きる。
そして、フラットデザイン = 印刷デザインとするならば、開発者は印刷デザインの理解が必要になる。iOS7のHuman Interface Guidelines でもデザイン原則についてひどく抽象的な説明しかされておらず、印刷デザインのノウハウを取り込みきれない質の低いフラットデザインが横行するだろう。

WWDC2013、そしてMac Pro

WWDC2013基調講演の映像を見ました。

・OS X Mavericks
猫系の名前がそろそろネタ切れ?ということでSea Lion(アシカ)ではなくMavericks。カリフォルニア州の旗に熊がいたので熊のことかと思ったら地名でした。
UIの見た目が大きく変わると思ったら今まで通り。でも圧縮メモリとか時間接着とかコアテクノロジーの渋い改良があって面白かった。昔からずっと言われてたmachの古めかしいタスクスイッチングについにメスが入るのか…!と思ったけど詳細はarsの記事待ち。圧縮メモリもLionの頃からメモリ食いが洒落になってないレベルなのでAppleがそこを改良してきたのは嬉しい。フットプリントを削減したWin8に負けてはいられない。
ファイルシステムの更新は未だならず。hfs+はあと何年保つのか。

・iOS7
噂通りのフラットデザイン化です。iOS Human Interface Guidelines 見ると「アプリケーションの特徴色をうまく使いましょう」などと書いてあって、かつてのGUI哲学はネットの出現によって駆逐されたのだなと感じる。
フラットデザインというのはハイパーリンクと組版とタイポグラフィの子供であり、初期Macが為した実世界メタファーの子供ではない。組版を直接操作するのはハイパーリンクがもたらした概念であり、フラットデザインはネットが生んだと言える。新しい世界の始まりと言えば確かにそう。しかしまあ慣れの問題かな。
それよりも、スケなんとかデザインが放逐されたことで、標準アプリのレイアウトが統一されたことが大きいと感じた。上が遷移タブ、左が戻で右が進む、下が操作アイコンという基本デザインが徹底されるようになるのでしょう。発表時に「Game Centerにもう緑色のマットはないよ!」と言ってアイブにカメラがフォーカスしたのには笑ったけど。
1500以上のAPIが追加、周辺機器プログラムにゲームコントローラが加わるらしい、講演ではPhysixとも言ったような…とか、まだはっきりしてないことも多い。

・Mac Pro
個人的にはこれが持っていったような気がする。
PowerMac G5が発表されたのがちょうど10年前。それから筐体デザインは殆ど変わっていなかった。
G5、つまり現行のMac Proは筐体内で風をストレートに通すため前と後ろのほぼ全面をパンチングメタルにするという大胆なデザインを採用していた。筐体の発熱源を全て縦に並べて一気に風を当てるスタイル。
そして新しいMac Pro。「筐体内の発熱源を省スペースで冷やすには? → 中央に排熱用の煙突、その周りを囲むように熱源を配置」という発想により生まれた円筒形デザイン。
G4 Cubeも同じく煙突型の構造だったけど空冷だったし中の基盤は平行に並んでいた。Mac Proは基盤を三角形に並べて中央の煙突に排気ファンを付けていて、煙突というよりはタービンのような構造になっている。
「理想を追求したら常識を覆す形になった、だが美しい」というのは工業デザインの極致だ。例えばbuellのエンジン直下にサイレンサーを置くスタイル、あるいはYAMAHA YZF-R1のフレームを貫通するシフターアームとか。
Mac Proにもその極致があり、そしてカバーを外した時の美観すら考えてデザインされている。
省スペースな排熱レイアウトを実現し、コンピュータとは思えない形状を持ち、カバーを閉じた時はただの円筒にしか見えない、究極のデザイン。
こんなに凄い工業デザインは本当に久しぶりに見た気がする。G4 Cubeの時と同じく、必要も無いのに買うことを考えている自分がいる。あークッソ高いんだろうなーでも実物みたら格好良すぎて悶えるんだろうなー、とか。

camino reaches its end...

Camino reaches its end...

Mac OS X が登場した頃、新OSへの移行基盤であるCarbon環境にGeckoエンジンを移植することを目的とする、FizzillaMach という小さなプロジェクトが興りました。
Fizzillaというのは、mozillaにcarbon(炭酸)を入れてFizzを作るというシャレです。Machとは、Mac OS Xでネイティブ動作するmach-Oバイナリのこと。

Fizzillaでは、GeckoエンジンとOSとの仲介を担当するwidget部分にCarbonを使っていました。それに対して、Mac OS XネイティブであるCocoaを使うことで動作を改善しようというのが合成獣Chimeraプロジェクトであり、やがて商標問題によりCaminoと名前を変えました。
Caminoプロジェクトリーダーのひとりだったdave hyatt。彼は当時のMoziilaが採っていた統合スイーツ路線に懐疑の目を向け「MozillaからWebブラウザだけを分離して "軽量なタブブラウザ" を作るべき」と主張し、ChimeraとFirebirdの誕生に関わりました。Firebirdは商標問題によりFirefoxと名前を変えることになります。

そのdaveがAppleに入社したと判ったとき、GeckoエンジンがMac OS Xの標準Webブラウザになるのではないかという期待が渦巻きましたが、その結果はSafariとWebKitであり、mozillaプロジェクトは独立独歩の道を歩むことになります。
daveは奇しくも、Firefox、Safari、そしてCaminoという3つのブラウザの誕生に関わることになりました。

Caminoが成したwidget - Cocoaの成果はMac版Firefoxに取り込まれ、この時点でCaminoの存在意義はほぼ無くなっていました。
もうひとりのプロジェクトリーダーMike PinkertonはGoogleに入社して、Mac版Google Chromeの開発に携わるようになりました。

Gecko。Firefox。WebKit。Safari。Chrome。そしてCamino、その10年。
貢献者の皆様、そしてローカライズに関わった皆様、本当にありがとうございます。
巡礼の旅 (el camino)は、無事に終わりました。

3社の新ゲーム機、それぞれの選択

E3を控えて、ハードメーカー3社の新ハードが出そろいました。
ハードウェア事業は年々リスクが高まっていて、今回の世代交代は据え置き機自体の存亡を賭けている雰囲気がある。
というわけで各社の全力というか、それぞれの企業風土みたいなものが仕様に表れていて面白いです。

・MS
MSは以前からフライトシミュレータや入力デバイスなど本業のOS屋とは一線を画する傍流を持っていて、初代Xboxや次のXbox360も傍流路線のひとつだった。
Xbox360は全方位エンターテインメントマシンと銘打っていて実際ゲーム以外にも映画をDLしたり音楽プレイヤーとして使えたりもしたんだけど、設計は純粋ゲーム機のそれであり、そしてゲーム機として成功を収めたマシンとなった。
MSにはWindowsの版図を広げたいという野望がある。この野望はWindowsの存在理由でありMSの本流である。Windowsがビジネスだけでなく一般家庭でも使われるようになり、その内容も作業ではなくネット見たり写真見たり動画見たりといったエンターテインメント寄りになり、現在のMSそしてネットサービス含めたWindows環境は事実リビングを制覇できるポテンシャルを持つようになっている。
結果から見ると、Xbox OneはXbox360と違い、全方位メディアマシンとしての設計をアピールする形で発表された。傍流が本流に合流するというわけである。この方向性はXbox360に多く生息するハードコアゲーマーの指向とは一致していないけど、マニアにアピールするマシンは勝てないのが業界の迷信だしそっち方面はE3での発表待ちでもある。
ただ、セットボックス指向はかなりアメリカンなもので、Windowsであれだけグローバルデザインに気を遣っているMSがゲーム機だとアメリカン丸出しなのがちょっと面白い。
Xbox Oneの発表会で「今までのマシンはメディアボックスとしては動作が遅すぎる」と力説していたのが印象的だった。確かにXbox360やPS3はモード切り替えが遅すぎて使う気が起こらなかった。スマホのような小型機器でもマルチタスクで瞬時切り替えが当たり前の時代、同レベルのスイッチングを実現しないとメディアボックスを名乗る資格なしというところだろう。

・SCE
SCEはやはりソニーの遺伝子を継いでいる。「まずハードウェアがおわします」から物事を考えるのが技術力で勝ってきたソニーそしてSCEのスタイルであり、それはPS1の頃からまったくブレていない。ポリゴン表示に特化した1。独自チップ満載の2、Cellを積んだ3。PSPシリーズも含めて、高性能を追求したハードウェアこそがSCEの基本前提なのだ。
だからPS4が最強ゲームマシンとして性能を前面に押し出してきたのは当然の帰結であり、それにぶら下がるであろうサービス群の具体性が不明瞭なのも当たり前のことといえる。ハードウェアがまずあって、サービスは後からついてくるというのがSCEの世界観だからだ。ゲームにあまり興味がない人からすると「今までマルチメディア(死語)路線だったのに方向転換してきた」と考えるかもしれないが、PS3でゲーム以外の機能をアピールしていたのは「そういう用途にも使えるから追加してみることにしました」であり、SCEにとってゲーム以外はあくまで傍流なのである。
PS3が出た始めの頃はハードウェア性能が高すぎて国内のゲームメーカーがついて来れなかったけど、今回はPCゲームのハイエンド環境に追いつくという形になるので3の時ほどタイトル不足に悩まされることもないだろうと思う。この辺はXbox Oneも同じ。海外大型タイトルばっかになるかもしれないけど。ただXbox360もPS3もしばらく併売するだろうから不足現象そのものは避けられない。
Xbox Oneを含めて国内メーカーはどう動くかというのも考えてしまう。互換性が失われていてソフトから何から全て買い直しになるような新規ハードウェアを初っぱなに買う物好きが果たしてどのぐらいいるのか? を考えた時、純粋ゲームマシンとしてアピールしているPS4は非常に危ういと感じる。北米ならハードコアゲーマー層が厚いからそういう路線もアリかもしれないけど、PS3であれだけ苦労した国内メーカーが最初から本気を出してくるとは思えないし出せるとも思えない。海外でも知名度のある一部のメーカーが海外ウケするタイトルをちょろちょろリリースする程度ではないだろうか。それを予想してなのか、SCEはいまのところ国内向けへのアピールを対外的には殆ど行っていない。

・任天堂
任天堂はWiiと同じく性能での競合を避けてきた。発売が他よりも1年早かったり、E3での直接対決を避けてきたりと、独自路線行ってるという態度を貫くのはWiiの時と変わっていない。ハード設計に環境構築にサービスの準備とハイエンドゲーム機のリリースが果てしなく大規模になっていることを考えると、そういう分野で巨人であるMSやソニーとの真っ向勝負を避ける任天堂の戦略が正しかったのはWiiやDSが証明したけど、今度も同じになるかどうかはちょっと分からない。特にスマホにライトユーザーを刈り取られている現状では。
WiiUシステムソフトウェアの煮詰めの足りなさとかを見てると、販売の焦点は最初から2013年のホリデーシーズンだったのではと考えてしまう。今のところ予定ほどは売れてないらしいけど、ハードウェア経済圏の寿命を5年ぐらいと見積もり、ライバルの新ハードが出た際に全てのデベロッパーが即座に追従できるわけではなく、PS3やXbox360レベルの動作環境はあと3年は残り続け、永遠に追従できないところも出てきて…と考えていくと、Xbox360やPS3のタイトルをマルチで出してもらうためのツール整備をやったりインディ方面へのサポートを匂わせたりといった、「ハイエンドではない、ミッドレンジのゲーム圏にアピールする」という狙いはしたたかだと思う。
任天堂はハードを更新するごとに新しい操作系を導入してくる。LRボタン、アナログスティック、XYABの配置…現在の標準的なゲームコントローラに載っている要素のうち8割は任天堂が生み出したものだ。そしてWiiUではタッチパネルを載せてきた。スマホ界のゲームがそのまま持って来れるという妄想をするけど今のところそういう動きは見えてなくて、これからeショップを通じて門戸を広げていくつもりなのだろう。ただユーザーの要求水準が高く指向も海外とは大きく異なる国内ではあまりそういう動きは表れてこないかもしれない。
操作系へのアプローチ。「新しい操作系がゲームの可能性を広げる」と本気で考えている任天堂はソフトメーカーでもハードメーカーでもなくおもちゃメーカーであるということを再認識させてくれる。「枯れた技術の水平指向」とは、既存の部品を買ってきておもちゃに仕立てて売るというメーカーの基本原理をそのまま言い表わしている。
ただタッチパネルという選択やTVなしでゲームが出来るというアピールはどちらかというと生き残り指向であるといえる。TVにゲーム機を繋いでもらうために、据え置き機が生き残るために、という指向。任天堂とSCEは日本の会社なのでリビングでの人の過ごし方を日本ベースで考えている節があって、MSはアメリカベースで考えているっぽい。日本だと家族の個人化が進んでいて、リビングはさながら「異なるタイムラインを持つ家族がたまたま交錯する場所」になってるのに対して、アメリカではリビングが娯楽部屋に近い感じなのだろうか。アメリカはさすがエンターテインメントの国だなーと思う。
プロフィール

waverider

Author:waverider

ああ、沖縄に行きたい…

最近の記事
カテゴリー
最近のトラックバック
ブログ内検索
RSSフィード
リンク
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。