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一神教(キリスト教)についての基本認識

「~は宗教だよね」みたいな宗教オンチ丸出しの言説が減らないのと、FPSはなんで日本で売れないかということを考えていくため、ここに一神教(キリスト教)に対する基礎的な認識を記す。ちなみに以下の文はすべて山本七平「空気の研究」から得たものである。日本と西洋の差異を知るのに超お薦め。

一神教は「唯一神のみが"絶対"の存在である」とみなす。従って、この世のすべてのものは相対的な存在である。
人間の理の外にある唯一神のみを"絶対"の座に据え、それ以外の、この世のあらゆるものを"相対的なもの"として捉える。
これは、過酷な状況において常に最善の選択を行うための考え方である。この世の何かを"絶対"と捉えてしまうと、逆にそれに支配されて身動きが取れなくなるから。同じ理由で偶像崇拝も禁止する。物体に感情移入しない事、物事を相対的に捉える事、この二点が際立った特徴である。
旧約聖書は徹底された相対化の世界である。その際たる例として、人間創造の話と、箴言・ヨブ記の二例が挙げられている。

1.矛盾する人間創造の話
聖書では二通りの人間創造が併記されている。
・男女が同時に神によって創造される
・まず男が塵から作られ、ついで動物が作られたがどれも男の生存の手助けとならず、最終的に男のあばらから女が作られる
人間とはどういう存在であるかを規定する話なのだが、聖書は人間を矛盾した存在と捉えており、矛盾した二つの話をそのまま併記している。

2. 箴言とヨブ記
「箴言」とは、いわゆる生活訓である。方向性としては、「これらの教えを守るものは正しい者で、正しく報われるであろう」というもの。
そして「ヨブ記」。ここに、箴言の徳目をすべて守っている正しい人間、ヨブが登場する。しかし彼はなんの理由もなく次々と悲惨な目に遭う。見舞いにきた友は彼に向かってこう言う。
「正しい者は報われるのだから、お前は何か罪を隠しているに違いない、まずそれを白状する事だ」
この言葉は友にとっては真っ直ぐな忠告だが、当のヨブにとってはいわれのない糾弾に聞こえるだろう。ここに見えるのは、「ひとつの命題が絶対化されたときの恐ろしさ」である。いかなる命題も絶対化され得ず、仮に絶対化してしまえば恐るべき逆用が行われる。

…「ヨブ記」は「箴言」を否定しているわけではない。「箴言」がなければ「ヨブ記」は成り立たない。これがすなわち相対化である。あらゆる命題は矛盾を含み、矛盾を矛盾のまま把握する事ではじめて命題が生かされる。絶対化してしまうとヨブのような逆用が生じる。


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