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「胎児はいつからニンゲンとなるのか?」についての考察

胎児はいつからニンゲンとなるのか? - 地下生活者の手遊び について。

ブックマークにて「雑だ」とメモしておいたので、どこが雑なのかを説明してみようと思う。

キリスト教は「人間の条件とは何か」というのをたいへん重視する。
また、神は人間と契約するし、神のみが人間の魂を支配する。神は人間の理の外にある。
すなわち、「人間の条件を定義しうるのは神だけ」となる。だから、「人間の定義という重要な事柄が、人間の都合や情況に応じてコロコロ変わる」などという発想は、カトリックではハナっから許容されないのである。
キリスト教がこういう思考をするのは、奴隷制を経験しているからだそうだ。橋爪大二郎の宗教社会学入門から引用すると、

人間が人間の奴隷となり、人間が人間の主人となる間違った状況を解消するには、神が人間の主人であることにすればよい。それなら、人間は奴隷状態を否定できる。これが一神教のアイデアなのです。


という論理になっている。

上記の記事ではホムンクルスや魂の付与の話が出ているが、ここで注目するべきなのは「昔から、カトリックは理性的知見に基づいて人間の条件を線引きしようとしている」ということ。
バチカンが科学大好きなのは不思議でもなんでもない。「人間の都合に左右されない」「その存在は不変」「誰から見ても正しい」という自然科学の特徴は、明らかに真理と共通している = 神性を帯びるものだからだ。
「胎児はどの時点で人間なのか」というお題を解釈するにあたって、線引き行為を科学的事実という"真理"によって行うのは、バチカンにしてみれば当たり前の話だろう。
また、受胎を人間誕生とする線引きそれ自体は解釈でしかなく、時間が経てばまた変更されうる。
プロテスタントから見れば「まーたバチカンが聖書に載ってないオレオレ解釈してるよ」という感じかもしれない。

日本人が得意とする「イイカゲンでいい」という発想は、言い換えれば「基準は曖昧にしておいて、状況に応じて変えればいい」ということで、これは山本七平が "日本教" と呼んだ、汎神論からなる日本人特有の思考枠組だ。
この記事の根本は、実のところ「日本教の思考枠組」と「一神教の思考枠組」との対立にある。
ところが、記事を書いている本人がこれを自覚していないように見える。
さらに、科学の源流についての認識、すなわち「一神教の影響下で発達した神学や哲学や科学などの「真理探究部門」のうち、最終的に科学だけが"真理"の看板をがっちり掴んで現在に至る」という認識を持っていない。
だから、「カトリックの態度は疑似科学的で不誠実」などといったピンぼけを起こしてしまう。
手持ちの物差しが日本教の思考枠組でしか通用しないことに気付いていない、というわけ。

まとめると、
・キリスト教について
・科学と宗教の関係について
・汎神論と一神教との思考枠組の違いについて
これらについて無知なまま主張を展開しているので雑になってしまっている、という感想です。

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