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「ゲーム性」の正体について考えた記録

ゲーム性について考えてみた、その記録。
ただの記録なので読みにくいと思います。



Togetter - 「業界人の「ゲーム性」談義」
ゲームクリエイターの方々がゲーム性という言葉を軸にそれぞれの持論を展開する、貴重なtweet集。
読めば読むほど、「ゲーム性」の正体がさらに分からなくなってくる。
ある方は、ルール・インタラクション・ジレンマの風車だという。
ある方は、快感だという。
ある方は、戦略性だという。
正体不明の「ゲーム性」なるものが宙を漂っていて、皆がそれを指差して「あれはゲーム性だ」と言ってるけど、スケッチさせてみたら皆が皆違う絵を描いている、そんな鵺的イメージ。

→ 「ゲーム性」は「ゲームデザイン」という言葉に置き換えられないか?
→ 無理。tweetを見る限り、あるいは様々な場所での「ゲーム性」という言葉の使われ方を見る限り、皆が語っている「ゲーム性」は「ゲームデザイン」と差すところが一致していない。
「ゲームデザイン」は具体的な制作作業を連想させるが、「ゲーム性」はそれよりもさらに "ゲームの神髄" に近いものらしい。
また「ゲームデザイン」も結局は未定義の言葉なので、置き換えても混乱は継続するだろう。



ボードゲームだけがゲームである ゲーム・論考 遊星からのフリーキック
ゲーム性という言葉から始まり、「ゲームとは何か?」について述べる、読み応えのある記事。
ここで登場するのはかなり厳密な「ゲームの定義」。
執筆者によれば、コンピュータゲームはゲームの定義を逸脱しているものが多いらしい。

(保留00)
コンピュータゲームを「ゲーム」と呼んで差し支えないか?
→ 多くの人がコンピュータゲームを単に、あるいは直感的に「ゲーム」と読んでいるが、違和感を抱いている様子はない。
→ 私はここでの「ゲームの定義」をそもそも知らない。
→ コンピュータゲーム以外にもいろいろなゲーム、例えばここで上がっているボードゲーム、あるいは麻雀やトランプetc…があるが、コンピュータゲームだけが逸脱しているとは感じない。
コンピュータゲームは、それらと同じく「遊戯」だから。
→ 何故コンピュータゲームを、私は悩むことなく「遊戯」に分類できるのか? 「遊戯」の条件を満たすものとは?

(保留01)
→ WiiFitや脳トレに対し「あんなのはゲームじゃない」という揶揄はあるし、それなりに間違いでもないように思える。
ならば、例えば任天堂のような "ゲームメーカー" が売れば、それはゲームと呼んでOKか? WiiFitや脳トレのようなものでも?
→ 売り手が掲げる看板は関係ないが、WiiFitや脳トレはゲームと非ゲームの境界線上にあると感じる。
しかし、これらがゲームであることに疑問を感じるのは何故だろうか?
※ WiiFitは境界事例だが、X-DAYは境界事例か?



「ゲーム性」とは何か? - teruyastarはかく語りき
リスクとリターンという連立する要素を軸にゲーム性について語る、素晴らしい記事。
この記事は最初にリスクとリターンこそがゲーム性であると説くが、論考を進めていくうちに、ゲームの範囲がどんどん拡大していく。
人生あるいは社会においてリスクとリターンはつきものだから、人間社会における様々な事柄がゲームに含まれるのではないか、という流れ。

(保留02)
→ 受験勉強は「ゲーム」と呼べるだろうか? 就職活動は? 株取引は? 戦争は?
→ 直感的に、上記の事柄はゲームとは呼べない、と感じる。
「株取引なんてゲームみたいなもん」のような物言いについて、こういう言い回しが存在すること自体が、株取引がゲームではないと私たちが感じていることの証になっている。
直感的にと私は書いた。その直感が起こる源は何だろうか?



ビデオゲームの議論における「ゲーム性」という言葉をめぐって -雑誌『ゲーム批評』を中心にその使われ方の状況を探る-
Google検索するとかなり上位に来る秀逸な論文。
「ゲーム性」という言葉の分裂状況、カイヨワの遊びの分類をさらに発展させる試みなど。
筆者はゲーム性という言葉を巡る議論には踏み込まないと書いているけど、片足を突っ込んでいるようにも感じる。
上のtweet集と同じく、ゲーム性という言葉が鵺的であるというだけは明らかなようだ。



類似する言葉
「人間性」。言葉の使われ方が「ゲーム性」と似ている。
定義不明であり、それでいて皆が普通に使う言葉であり、その意味するところが人により少しずつ違うところなどが。

受動意識仮説
人間が身体を維持・駆動する時に各器官から返される信号および処理の総体が「意識」である、とする仮説。
個人的にはこの説は当たっていると思う。脳だけでなく各器官の総体が人間であり、器官を切除しすぎると自律神経の出力が消失するとか何とか。(攻殻ネタ)
動物は人間ほど豊かな意識を持っているわけではないという。単純な反射・生物的本能から来る所作の数々を見て、私たちは勝手に、彼らの内に意識を持つと錯覚するだけとか。
受動意識仮説を採れば人間もこの例に漏れないのかも。

「人間性」が不定なのは、我々の「意識」の捉え方がそうであるように、観察者が対象から"見い出す"ものだから。
あるものをただ見るのではなく、心の働きによって見い出す。
気になるあいつの人間性をあなたはどういう時に"垣間見る"?
"垣間見る" ようなやり方でしか見えないものは、そもそも固定した実体を持たない。



ビデオゲームにおける「ゲーム性」もまた、個々人がゲームに触れたとき、そこから見いだす「ゲームの本質である何か」なのだ。
それは観察者により千差万別に変化する …しかしそのパターンはある程度は収束する。人が定義する"本質"のパターンは、ビデオゲームにおいてはそれほど多くないはず。
主格を逆転させれば、それはゲームに宿る魂や神髄や本領と呼べるだろう。観察者がそう思って対象から見い出したものだから。堂々巡り。
振り返ってみれば、得体の知れないものの正体はそのまま鵺だった、という妖怪談義だった。
正体が分かったので、これからは堂々と「ゲーム性という言葉は曖昧である!」と言えるわけだ。
答えだけを知っているのと、答えを引き出す過程を知っているのとでは、多少の違いがある。



…あれ、保留がそのまま残っていた。
どうも私は遊戯に「それが現実生活に直接影響しない」という制限を課しているようだ。
現実生活に直結しているような行為は、遊戯とは呼ばないのだと。
(保留00)コンピュータゲームは遊戯と呼べる。特定のソフトウェア内で完結する行為は、現実生活に直接接続しない。
(保留01)WiiFitや脳トレは実際の健康に連結している。だから純粋な遊戯ではない。
(保留02)受験勉強も株取引も戦争も遊戯ではない。それらはすべて現実生活に直結している。
この制限はゲーム性とは直接関係しない。遊戯でないからといって、そこにゲーム性が宿らないとは限らない。

ホモ・ルーデンスという言葉が思い出された。
人間は遊ぶ生き物であるという。政治や戦争と言ったクリティカルな環境ですら、人はそこで現実と直結しない戯れを行おうとするらしい。
ゲーム性という鵺を我々が日常的に目撃するのも、"遊戯するヒト" としてはごく当たり前の心的挙動なのかも。

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